三井財閥の歴史 豆知識・雑学

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三井財閥の歴史 豆知識

三井財閥のルーツは古く、
今から約340年前、江戸時代の延宝元年に
今の東京の江戸本町に開店した、呉服屋の「越後屋」です。

そうです、時代劇によく出てくる
「越後屋、お主も悪よの~」の、あの悪名高き「越後屋」が
三井財閥のルーツなのです。

それにしても、「越後屋」は時代劇の中で、

遠山の金さんには、はりつけ獄門を申し渡され、
仕置き人にはお仕置きされ、
暴れん坊将軍には叩き切られ、

あれだけ悪者扱いされているのに
一切文句を言わない三井グループは、懐が深いです。

 

住友財閥は鉱業を元に財を築いたのに対し、 三井財閥は商業を元に財を築きました。

江戸に「越後屋」を出店したのは
越後(伊勢・松坂)の商人、三井高利という人物です。

この辺りに越後屋が出店

 

三井高利三井高利はひじょうに商才に優れ、
次から次へと、革新的な新商法を考え出し、
「越後屋」はドンドン大きくなり、
他の呉服店から妬まれ、迫害を受けるほどになりました。

どのような商法かというと、

それまでの呉服屋は、大名、武家、大きな商家などを回って歩き、
商品や見本を持って行き、注文を取っていました。

支払いは盆暮れにそれまでの分をまとめて支払うというのが
慣わしでした。

そのため、人手も金利も掛かり、
商品の価格は高くなり、資金の回転も悪かったのです。

それに対し「越後屋」では
ターゲットを一般の町人に絞り、店頭売りをしました。

布の切り売りに対応し、 支払いはその場にて現金決済。
そのため、資金の回転がよく、店頭売りは人手も掛からないので、
商品を安く売ることができました。

現在で言えば、ユニクロなどのファストファッション的な存在ですね。

次々と新しい趣向の商品で店を飾り、 来店を促すチラシも配りました。

日本で、初めてチラシによる集客を行ったのは
この「越後屋」だといわれています。

三井の社章更に、雨が降ると越後屋のマークが入った傘を無料で貸し出し、
店のPRをしたそうです。
(ちなみに今でも三井グループ社員の胸には
この時と同じマークの社章が付いています。)

今でしたら、当たり前のように行われる商法ですが、
それを300年も前にやっていたというのは、すごいですね。

ところで、「越後屋」が三井財閥の財を築いたのは
呉服屋の商売だけではありませんでした。

もうひとつ重要なのが両替商としての商売でした。

当時は、金貨、銀貨、銭貨(銅貨)の三種類の貨幣が使われていました。
しかし、それぞれは独立した貨幣として存在し、
それぞれが別の国のお金のようなものでした。
更に、それぞれの貨幣のレートは日々変化していました。

そこで、それぞれの貨幣を別の貨幣に換金する商売を行っていたのが 両替商です。

江戸時代の越後屋「越後屋」も呉服屋の傍ら、両替商を営んでいたのですが、
三井高利は両替商としても、その商才を発揮しました。

高利が目を付けたのは、幕府の公金の送金システムです。

それまでは、年貢などとして大阪に集められた莫大な現金を
陸路や海路を使って、江戸まで輸送しなくてはなりませんでした。

しかし、賊に襲われたり、事故に遭う危険が付きまとい、
おまけに、輸送コストもバカになりませんでした。

そこで、大阪の「越後屋」にこの莫大な公金を預ければ、
江戸の「越後屋」で引き出せるというシステムを作り上げました。

今では、銀行を通じて送金するというのは当たり前ですが、
それを、300年前にシステム構築したというのは、すごいですね。

これにより、「越後屋」は幕府の御用両替商となりました。

そして、この送金システムは、一般の商取引でも利用され、
江戸と大阪の商人の間で、多額の商取引が可能になったのです。

「越後屋」は江戸時代のファッション文化と経済を発展させた 立役者だったのです。

現在、「越後屋」の呉服商を受け継ぐのが三越百貨店、
両替商を受け継ぐのは三井銀行です。

今では 両方とも別の会社に統合されてしまいました。

 

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